花と歴史

花と歴史   房総 木更津・古代史から狸ばやしまで 

花と歴史   房総 木更津・古代史から狸ばやしまで 

◎日  程・2021年12月5日(日) 晴れ 

◎参加者・20名

◎コース・千葉7:13(内房線各停)―木更津7:56/8:10…八剱八幡神社8:15/20…浄土真宗本願寺派・證誠寺8:25/35…日蓮宗・光明寺(与三郎の墓)8:40/8:50…浄土宗撰擇寺(こうもり安の墓)8:55/9:05 …木更津郵便局9:10/9:45…中央二丁目BS 9:52(バス)―朝日二丁目10:00…金鈴塚古墳10:05/10:15…太田山公園11:00・12:10…安西家住宅12:15/12:35…真言宗長楽寺13:00/25…学校前BS 13;43(バス)―木更津駅東口13:55(解散) 

■師走の入りにしては寒くもないが、車中からはうっすらと富士も望めた。大人数にしてはすんなりと出発でき、長い付き合いの顔ぶれで盛り上がる。まずは「歩こう」となり、木更津の元「歓楽街」を行く。すぐ、頼朝手植え(伝)のソテツと関東一という大神輿を見て、矢那川縁にある證誠寺に向かう。とても狸が群れをなして出てきそうな環境ではないが、狸塚はあるは、童謡の歌碑はあるは、如何にもそれらしく整っている。
歌舞伎十八番「世話情浮名横櫛」の与三郎の墓と、蝙蝠安の墓を見せられるが、撰擇寺の別の顔、明治2年、大網の本国寺に宮谷(みやざく)県が置かれたが2年後の明治4年には廃藩置県で木更津県となり、その権令(知事)となった柴原和の宿舎となったのが撰擇寺であった。また、小林一茶の句会も開かれ、宿ともなったそうだ。こう見ると江戸から明治にかけては千葉県の中心は木更津だったのかの思いだ。事実、幕末期の千葉の大都市は銚子、木更津、佐原だったのだ。
バスで内房線を越え、金鈴塚古墳に向かう。長辺が95㍍と推定される前方後円墳だが、後円部の一部と横穴式石室と石棺が残っているだけだ。しかし、他には類を見ない豪華な副葬品が出土した。その最たるものが純度98%の金鈴だ。郷土博物館「金のすず」でその輝きを確かめた。安西家は頼朝が頼った家柄だ、鎌倉を目指す軍勢が千騎ほどになった頃、さしかかったのが草敷で、そこにあったものを移築したものだ。
矢那川の上流、山を背にした長楽寺こそ、狸と和尚さんの歌舞合戦をイメージしたお寺だと、野口雨情本人が地元の記者に語ったという。納得できたところで、木更津を去ったのであった。(FT)

金鈴塚古墳を見る
長楽寺本堂を背に